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旧イリアイ町界隈には『たまりみず』という名のサビ崩れたカフェがあります。そこでは、退屈に閉じ込められた他愛の無い、やっぱり退屈なお話がたっぷり詰まっています。そんなお話たちの一片をごらんになれる地球で唯一の場所。。

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阪神大震災から11年。。。 

2006年1月17日をもって、阪神大震災から11年が経つ。はや11年。

当時ボクは19歳で大学生、後期試験を明日に控えるため遅くまで資料を読み漁っていた。

朝方まで起きていたと思う。

寝付くか寝付かないかをうとうとしていた時、突如として激しい揺れがあった。

はじめ、これはただの地震ですぐに収まるだろうと、眠たい布団の中で高をくくっていた。

次第に揺れが強くなり、横揺れではなく縦揺れに変わり、体験したこともないような強い衝撃が地の底から突き上げると、ボクの家を押し上げて落とした。

ボクはこのときはっきりと死を意識した。

すべてが崩れ去る紙一重のところまで、木造二階建ての家は激しく揺れ動いたのだった。

ボクの部屋の本棚はすべて倒れ、箪笥は倒れ、間一髪で箪笥の下敷きから免れた。

窓の外の暗いはずの空が、なぜか明るかった。


そうしてボクたち一家は被災した。

幸い家が倒壊することはなかった。

外壁にひびが入り瓦が落ちた程度のこと。

家財道具は多くを破損したが、誰も怪我をすることはなかった。


何が起こったのか、外の世界のことは何もわからなかった。

もちろん、神戸の町が焼け野原になっていたことなど知るはずもない。

電気もガスも水道も、もはや止まっていたのだ。

当時から日記をつける習慣があり、その当時の様がリアルに蘇ってくる。

『それにしても何か変わったことでもあったのだろうか?と1940年の9月(フランスがドイツに降伏したとき)にあの出不精の小市民が家具に埋まりながら言ったことです。みな相変わらずビフテキを食べているじゃないかと。変化は外側にしか存在していなかったのです。その変化は彼に何の係わりがありましょう』ヴォーボワールの本から引用して、情報が寸断される恐怖を書いていた。

テレビやラジオが無くなった瞬間、世界のことは何もわからなくなってしまう。

その脆さがおそろしい、と。

1月17日の夕方、ボクは市内のアルバイト先へ遅刻しないように自転車を走らせていた。

割れたアスファルトと崩れたブロック塀で何度も通行を妨げられながらも、結局たどり着いてしまった。

今に思えば、営業しているはずもないのに。



バイト先の先輩の車に乗って、国道43号線を神戸へ向かったのは、被災してから1ヶ月近く経ってからのことだった。

地割れの起こったアスファルト、崩れたビル、傾いたビル。。。町中が崩れて死に、人の気配が一切消え、ボクは傾いたビルの裏にひっそりとまわり、嘔吐した。

ボクの知っていた神戸は無かった・・・・。


それから数年後、アルバイトで仮設住宅、復興住宅に何度か係わったことがある。

ひどく怒られたこともあれば、ひどく感謝されたこともある。

仮設住宅に長く暮らす人々は、どこかしらおかしくなってくるんだろうかと、薄っすらと感じていた。


今は復興住宅が立ち並ぶ。

ボクが引越しのお手伝いをした尼崎市内の復興住宅も、当時のまま残されている。

今朝の毎日新聞の一面の記事では、復興住宅の高齢化率が44.4%にものぼったとのこと。

みんな年をとってゆく。

五十代だった人は六十代になった。

十代の若者だったボクは三十代になった。

思いはあの当時のまま、だけれど。

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2006/01/15 00:40|未分類TB:1CM:1

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#|2006/01/15(日) 15:27 [ 編集 ]

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『神戸』
1995年1月17日、あの日から11年目の朝がやってくる。かけがえの無いものが奪
酔いどれ日記|2006/01/15(日) 14:09

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プロフィール

ろんど

Author:ろんど
高校時代に伝説のパンクバンド『Felicitous Dog』のメインボーカルとして活躍。ライブ活動多数。「今夜はオレのためにありがとう」などのMCで一躍脚光を浴び大スターの座に躍り出た。高校3年の学祭ではトリを務め、全校生徒を完全に魅了した。バンドは高校卒業時解散。
その後デュオ『Power of myth』のメインボーカルとして再び音楽活動に入る。神話的イメージとタンゴ調POPSの融合を試み新しい音楽の創造に尽力、友人、知人、他人、周辺住民の間で一世を風靡した。活動期間わずか4年で解散。
一方、大学在籍一年時に非公認サークル『創作文藝会』を有志4人らとともに創設。初代~3期の会長に就任。文芸同人誌 『ん!?』の編集長として創刊号から第9号まで手がける。
自身も小説、ポエム、エッセイ、旅行記など幅広く投稿し作家としての一面も合わせ持った。淡い青春時代の虚栄心を克明に描いた処女作『はげ』で衝撃のデビュー。『正常な狂人』『路地裏メルヘン倶楽部』『テープスペクタクル』『シルエット』『おやっさんの体験談』『山田X』『光芒の黒』『循環』など次々とヒット作を連発し、ファンタジックな世界観をやさしく流麗な文体で表現した悲喜劇が主に女性読者層のファンを集めた。また自身の旅行記を著した『中国おったまげ探訪記』『インド・ネパールぶったまげ放浪記』などアクティヴ派作家としての一面も持ち、抱腹絶倒で痛快な文体は学生諸君に夢と希望を与えた。詩人としては、銀色夏生をもじったペンネーム 金色なめを で純情恋愛ポエムを次々と発表。学内の話題を総なめにした。他、読書案内の『ろんどのやけっぱち書房』シリーズ、映画紹介の『寝巻きでシネマ館』シリーズなどがある。
第3期目には非公認サークルから大学公認クラブへと昇格させ、大学から予算がおりるようになるやいなや、連日連夜に渡って放蕩の限りを尽くした。
学生時代はインド、ネパール、インドネシア、中国、西欧諸国等海外放浪をライフワークとした。おかげで日本社会に馴染みきれないもどかしさがある。

現在はしがない会社員。一児の父。趣味は散歩と昼寝の他、特にない。座右の銘は『私が自画自賛しなければ一体誰がしてくれよう』である。

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